習い事
引っ越して落ち着いた頃、新たな習い事を薦められた。
私は今まで色々な習い事をさせてもらった。
スイミング、剣道、少林寺拳法、バスケ。
運動は得意だったので、ほとんどがそれなりにできた。だけど面白くはなかった。
そんな時に出会ったのが新体操。
新体操は手具を使いながら音楽に合わせて踊る競技。
手具操作の前に柔軟ができて初めてスタート地点に立てる。
そして音楽に合わせて手具を使いながら踊る。
スラっと伸びた手足。音に合わせて踊るお姉さん達がとてもカッコ良かった。
私はすぐに新体操がやりたい意思を伝えた。
体を柔らかくするには時間と努力が必要だったが、この習い事だけは楽しくて仕方がなかった。
家で柔軟をするのが日課になり、気付けば新体操の虜になっていた。
鍵っ子
私は小学生。
新しい友達とは打ち解けて楽しく生活していた。
が、1番嫌いな時間。それは放課後。
今までは母子寮に学童がついていたので寂しくなかったが、今学校が終わって家に帰っても誰もいない。
いわゆる鍵っ子。
転校して友達ができたと言っても放課後遊ぶほど仲が良かったわけでもなかったし、遊んだとしても夕方になればみんな帰ってゆく。
20時頃にならないと2人は帰ってこないので、ひたすら2人の帰りを待つ。
そんな時に同じ団地の下の階に住んでいた男の子(1つ年下)と出会った。
階段で悲しそうな顔をしていると、うちで待ってれば?と言って気にかけてくれるようになった。
面倒見のいいお兄ちゃんみたいな男の子。
私はその子と一緒にいる事で寂しさを紛らわしていた。
少ししてこの男の子は引っ越していったけど、この子の存在のお陰で保たれた部分は大きかった。
寂しくても寂しいなんて言わない。
言ったらママが困るから。
ママだって離れたくて仕事しているわけじゃない。
3人で暮らしていくには働くしかない。
私が我儘なんて言ってる場合じゃない。
だから寂しくても悲しくても我慢していた。
その頃かな?
隣の席の男の子のお母さんが急に教室に乗り込んできて、、、私に怒鳴ったの!笑
『あなたみたいな子が〇〇に関わらないでちょうだい!!』なんたらかんたら〜て。
見るからに熱血モンスターペアレント系。
大人しそうな優等生タイプの子だったんだけど、私なにかしたかな?って。
小学生って悪気がなくても冗談言ったりして傷付けてしまう事もあるじゃん。
そういう感じかなと思ったけど、いくら考えても何が原因だったのかわからなかった。
そのお母さんは隣に並んでいた机を引き離して並べ直した。
衝撃と悔しさと恥ずかしさで頭がいっぱいになり、もうこの子と関わるのやめ、一切話さなくなった。
家に帰ってからママに相談してしようかと思ったけど、心配かけるので言えるはずもなく、、、
私が悪かったのかなって納得して、なかった事にした。
この辺りから複雑な感情が入り乱れ、初めてママに最悪な言葉を投げかけてしまった。
『何でうちにはお父さんがいないの!?』
『わたしなんて産まれてこなければよかった』など。
今思い出しても自分に腹が立つ。
小学生だからって言って良い事と悪い事がある。
そんな事なんでわかんないんだよ!って。
少しずつ自分の中で何かが変わっていった瞬間。
小さな傷
ある日ママから告げられた。
そろそろここ(母子寮)を出て3人だけで暮らそうか!と。
多少の寂しさはあったものの、私は3人一緒なら何でも良かった。
そしてもう1つ。
ドキュメンタリーの密着取材がくるかもだけど、いいかな?と。
父親とは話がついていたし、ママのお友達がテレビ局で働いていて頼まれたみたいだった。
そしてテレビに出れば何かしらの報酬は貰えるんだろうなと幼心に思い、二つ返事で了承した。
この頃小学2年生。
転校するとなると、そっちの方が話題になって溶け込みやすそうなんて考えていた。
そして引っ越す前から密着ドキュメンタリーの撮影が始まり、寝てる時以外はスタッフさんが常にいた。
優しくて良い人たちだったから、全然苦じゃなかった。
引っ越し先はいわゆる団地。
家具や家電はほぼ持っていないので、買い物にいくと冷蔵庫や洗濯機などはテレビ局側が買ってくれた。
これだけでも引き受けて良かった!と思った。
転校する際もカメラがずっと一緒で、スタッフさんが緊張している私を励ましてくれた。
カメラを引き連れた転校生は物珍しく、みんなが優しくしてくれて、あっという間に溶け込む事ができ、やっぱり引き受けて良かった!と思った。
だけど1つだけ大人の嫌な部分を見た気がした。
それはスーパーに買い物に行った際に、蟹をカゴに入れてとスタッフさんにお願いされた。
そして言われた通り蟹をカゴに入れると、ママは『うちはこんなに高いのは買えないから戻してきて〜』と言われた。
あ、これ台本か!スタッフさんが買ってくれるわけじゃないんだ!
貧乏だけど、貧乏な振りしなきゃいけないんだなぁって悲しくなった。
見せ物じゃねーよって。
蟹ぐらい買えるし不自由ないようにママが一生懸命働いてるのに、こんなのを全国放送のゴールデンで流されるんだって思ったら、馬鹿にされているようで悔しくなった。
まぁ結果的には同情されたし、それで支援してくれた人もいるから結果オーライなんだけど、小学生の私は何かを悟った気がした。
夜逃げ
このご時世色々な事に直面して、今まで以上に考える事が増えた。
自分は何を目標に何のために生きてるのかって。
そう思ったのも初めてではないんだけど、漠然とそんな事を考えている。
私は幼い頃の記憶と言えば父親がママを殴っていたこと。
そして押し入れの中に弟と2人で隠れていたこと。
息を潜んで見守る事しかできなかった。
4歳くらいだったかな、、、
全くもって思い出したくない記憶の1つ。
そして耐えかねたママは私と弟を連れて、夜逃げした。
親戚の家を点々としながら、追ってくる父親から逃げ回っていた。
親戚宅には半年くらいお世話になったのかな。
そこから母子寮という初めての空間で生活することとなった。
聞いた事もない所で始まる生活に不安はあったが、3人一緒ならどうにでもなる気がしていた。
少し前の状況より悪くなるわけがない。
母子寮はうちと同じ様な人や様々な理由でここにたどり着いた人たちの集まり。
6畳1間でお風呂とトイレは共同、だけども安心感があったのを覚えている。
20世帯くらいの集合住宅。
外出、帰宅した際は必ずボードにある木の名札をひっくり返す、あと男禁制それがルールだった。
部屋は狭かったけれど、お風呂は銭湯みたいに広かったし、母親が仕事に行ってる間も周りには同じような友達がいたから、とても心強かった。
ママの仕事はというと、小さな体でクリーニングのトラック運転手をしていた。
重い荷物を運んで、生計を立てた。
私が保育園に行かない日は一緒にトラックに乗って仕事しているのを見ていた。
一緒にいれる時間がすごく嬉しかったな、、、
ママはいつも笑顔で泣き言なんて絶対に言わない、明るい人。
母子寮に越してきてから
『これからは3人で頑張っていこうね!』と
手を握って話したのを覚えている。
本当はすごく辛かったと思う。
大切なものは燃やされ、生涯共にすると決めた相手には殴られ、耐えていたんだから。
そんな思いをしながらも私たちのことを考えてくれて、片親だから!と言われないように、そして可能性が広がるようにとスイミングや剣道、少林寺拳法を習わせてくれた。
私が今同じ立場になったら、同じように振る舞えるのかな、、、自信ない。
沢山の愛で包んでくれた、ママをすごく尊敬している。
ここで生活したのは3年くらいかな。
なんの不自由もなかった。
寂しさもなかったし、やっと居場所を見つけられた気がした。